平成27年度秋季シンポジウム

「鎌倉考古学の到達点と新展開」

報告 3年 伊禮 拓郎

2年 岸 なつみ

     

 平成27年度秋季シンポジウムは117日(土)、「鎌倉考古学の到達点と新展開」と題し、5人の講演者を迎えて開催された。

 基調講演では本学文化財学科教授・河野眞知郎氏に「鎌倉考古学の到達点と新展開 基本10項目を検証して」と題しご講演いただいた。講演では中世都市鎌倉を解明するため下記の10項目が挙げられ、各項目について到達された主要な成果と未解明な点が述べられた。

①都市鎌倉の範囲(時間的・空間的)

中世鎌倉はいわゆる日本の首都であったが、都市鎌倉の終焉の時期が未解明である。また、都市鎌倉の空間範囲も解明されていない。北鎌倉方面、藤沢・逗子の境までが範囲であったのではないかとされる。

②政権の諸機関と軍事的施設

まだ将軍邸・得宗邸などの調査が進んでおらず、今後の調査・研究が待たれる。

③都市インフラの整備

道路の基本構造は把握できているものの、頼朝が来る以前の鎌倉に関する資料はなく、鎌倉は新たに作られた都市であったとされる。また、これまでの調査・研究によって路面が舗装されていたことが分かったが、新設や付け替え、町割り等については未解明である。この他にも道路網・河川・排水路の流下方向の把握は不十分である。

④御家人の宿所とその構造

今小路西遺跡(御成小学校内)や御成町171番地点が大きな成果となっているが、『浄光明寺敷地絵図』に見られる小規模な屋地と町屋地区の区別が困難となっている。

⑤宗教的施設の設置と変遷

永福寺や建長寺、大仏殿などはかなり解明がされているが、現在の寺院内の調査は不十分である。また、小規模な廃寺の把握は困難である。

⑥都市住宅とその住居群(町)

「町屋判別法」がゆらいでいるほか、「板壁建物」の性格についてもよくわかっていない。また、武家屋敷内や寺社境内に住む職能民の把握はまだ研究途上にある。

⑦消費経済と物流、銭と倉

陶磁器の史料は多く発見されほとんどが出そろった状態にあり、倉についても研究が進展している。今後は地元産品である「かわらけ」の編年は見直しが必要とされる。また、鎌倉の遺跡を掘ると銭が出てくるが、なぜ街中に銭が落ちているのか疑問が残る。

⑧信仰と呪術、遊芸者

陰陽道的呪術の実態解明は不十分であり、仏教的「装置(仏壇・仏具)」が庶民に浸透したことを強調するべきである。今後は勧進印判や傀儡人形など、貴重な出土品の実態解明が必要とされる。

⑨都市における墓葬…「やぐら」と浜

「やぐら」の研究は閉塞的になりつつあるため、今後それを打破し深めることができるのか問題となってくる。また、由比ヶ浜南遺跡は「墓地」なのか「葬地」なのかという問題や「遺棄葬」があるかなどの問題もある。

⑩都市鎌倉の終わりとその後

近世の遺構・遺物が軽視され「鎌倉府」の時期の追及が不十分となっている。今後は「武士の古都」として鎌倉時代以降どうなっていったか通史的把握の視点が必要である。

 

これらの10項目をすべて解明しただけで鎌倉のすべてが分かるわけでなく、鎌倉を鎌倉だけで語らず各地との関係を見ていくことが今後必要である。このように鎌倉の考古学にはまだ解明するべき点が多いことをあげ、次世代へ研究が託された。

 続いて、「新展開へ向けての提言」と題し、鎌倉考古学に携わる4人の方にご講演いただいた。

 はじめに、浄光明寺執事・古田土俊一氏より「石造物で考える鎌倉」と題してご講演いただいた。

これまで石造物は美術や建築史の分野で研究が進められていたが、考古学の参入によって実測図を用い更なる研究が行われるようになった。一口に石造物と言っても五輪塔や宝篋印塔、板碑、宝塔、層塔、無縫塔、石仏など多くの種類はある。鎌倉の石造物は13世紀末~14世紀頃から現れるようになり、その後急速に普及していく。

鎌倉の石造物の技術は宋の石工により、大和を経由して導入される。11811月、平重衡によって南都焼討が行われ、その災禍で東大寺が焼失する。同年4月に東大寺の復興が始められるが、その復興に伴って宋から石工が招聘され東大寺の石獅子などが造立される。渡来した石工は伊派や大蔵派とよばれ、畿内で石造物の造立を行った。これらの石工は西大寺の僧・忍性が布教のため関東に進出した際に同行し、箱根などで造塔している。多くは遠隔地から陸路で運ぶのではなく、海路から運ぶことのできる伊豆箱根系の安山岩が使用されている。これら渡来系石工によってもたらされた技術は、南都律宗の忍性の布教と共に鎌倉で定着し、関東各地へと伝播していったのである。これを示すものとして、関東にある石塔には伊派や大蔵派のながれを組むと思われる人物の銘が入っている。また、鎌倉にある西大寺様式の五輪塔は西大寺の五輪塔より小さく、意図的に西大寺の五輪塔の大きさを超えないようにしていたと思われる。しかし、泉涌寺(北京律)や建長寺(禅宗)の祖師塔の形は中国的要素を持っており、北京律や禅宗などの兼学の宗派間交流を考慮する必要もある。

このような過程で導入された石造物のうち、中世の大型石造物は丘陵部に多く配置されている。また、これら中世の大型石造物は鎌倉で行われた霊所七瀬祓の儀礼範囲内におさまる。これらのことより権力者による功徳や交通の目印、鎌倉の都市開発、都市計画に利用されたと思われ、大型石造物の設置されている範囲が都市鎌倉の最大範囲を示すのではないかと考えられる。

鎌倉市教育委員会文化財課職員・松吉里永子氏は「『かわらけ編年』再検討」と題し、これまでの先行研究を振り返り、今後必要な取り組みについてご講演いただいた。

かわらけは宴会の際に使い捨ての器として使用され、鎌倉でも多く出土する。鎌倉出土のかわらけ編年は斉木氏・服部氏・河野氏・馬淵氏・大河内氏・宗臺氏等によって行われている。これらの編年は年代指標となる共伴遺物との関係や器形変化を中心とする編年で、各研究者によって編年に差異があり「ロクロ」や「手づくね」のかわらけについては定まった呼び方が無いという問題がある。

先行研究におけるかわらけ編年は器形を中心に考えることが多く、制作技法で考えることはなかった。しかし、拓本による底部の切り離し痕の違いやナデの違いなど、成形・整形・色調といった製作技法の検討はかわらけの系譜・技術の流入を考える上で必要なことである。

今後は、大倉幕府周辺遺跡群などの一括出土資料を使用することによって資料を年代・場所ごとに分けて抽出し、技法変化の研究にも取り組む必要がある。また、先行研究における器形中心の編年に加え、成形・整形技法を取り入れることの必要性や胎土変化について地質や鉱物の専門家による分析が必要になるだろう。とくに、製作技法の変化を拓本で表すことにより変化の画期が明確になる可能性や、器形・製作技法の検討によって技術系統や工人差、工人集団の工房差の検討にもつながると考えられる。また、編年を再構成することにより海浜部・中心部・谷戸周辺といった地域差、器種の多様性が明確になる可能性がある。

これらのことより、内底ナデ拓本化や成形技法の図化復元、鎌倉出土かわらけの制作技術の復元、在地の土器職人の技術と地方からの技術伝播についてより明確にする必要がある。

本学大学院博士前期課程・西下正純氏は「『やぐら』解明のために」と題し、遠隔地にある「やぐら」と鎌倉の「やぐら」の比較についてご講演いただいた。

やぐらは尾根と尾根の間にある谷戸の崖面に開いた窟のことを指し、その9割は鎌倉にある。鎌倉では13世紀末~15世紀にかけて多く作られ、自然地形を人工的に改変したものが歴史的遺構として残っている。文献で見られる「やぐら」は『新編鎌倉志』や『鎌倉覧勝考』などに出てくるが、鎌倉・室町時代に言及した史料は無く、その起源は古代横穴の転用・墳墓堂などの転換ではないかと考えられている。

9割が鎌倉にあり、鎌倉近隣では平塚や房総半島にも確認されている。本講演では遠隔地に焦点を置き、鎌倉のやぐらと比較が行われた。形状や伝承を踏まえ鎌倉のやぐらと比較すると、全体を通して鎌倉のやぐら造営時期より先行するものはなかったが、同時期に造営されたと思われるやぐらが確認された。また、やぐらの主目的は納骨であるが、今回取り上げたやぐらでは納骨が確認されなかった。「やぐら」と形状は似ているが直接的なつながりがない事から遠隔地の「やぐら」は宗教面や地域信仰などからの研究が必要であると考えらえる。

NPO法人鎌倉考古学研究所・松吉大樹氏は「文献史学との協業 ―武士『宿所』の解明―」と題し、中世都市鎌倉における「宿所」から邸宅・家内統制についてご講演いただいた。

文献史料における宿所は、主人の屋敷内に構えられた出仕のための居所という意味と、本拠とは別に設けられた施設という2つの意味がある。後者は前者の性質を加え、中世都市内に発生する「宿所」として設けられていく。中世都市京都にも臨時的な宿所が発生しており、古代平安京の「官衙町」からの系譜と考えられる。『吾妻鏡』では宿所の事例が複数確認されているが、建物が多様な表現で記録されている問題などもある。しかしながら、主君への奉仕・出仕の際に本拠地とは別に構える臨時の居所としての意味合いと、中世都市内の宿屋的機能を有する「寄宿」装置が発達・発展し、都市の邸宅一般を指す言葉に変化し、同時に影響し合いながら作用し発展していく。

鎌倉市御成町171番地1外地点で出土した墨書板には人名らしき文字が記されている。資料を読むと宿所を警護する夜行番のリストであると考えられ、安達氏に関係のある人物であったと推測される。これらの人物は封建制度の主従制度は無いが、奉公する感覚つまり地縁・擬制的主従関係があったのではないかと考えられる。また、『吾妻鏡』寛元元(1243)年七月十七日条「所押台所之上也」とあり、出土した墨書板も台所の可能性があるほか、裏面に刃物傷があることから掲示前後にはまな板に使われた可能性がある。吾妻鏡でも北条時頼の穢れについて、重時や評定衆が「臺所」いわゆる「台所」で話し合いをしていることから台所は重要な場所とされる。本資料だけでは、考古学の成果に答えられるほどの成果は無いが、今後の再検証・新たな視点で文献を見ることが重要である。

公演終了後討論が行われ、本学科教授・宗䑓秀明氏を司会に招き、5人の講演者に対し各講演の研究課題について質問・発表がなされ、活発な意見が交わされた。