平成27年度春季講演会

「洋風画から油絵へ ~西洋と東洋の彩色技法・材料の出会いと融合~」

講演者 : 文化財保存修復スタジオ 武田 恵理 氏

 

平成27年度春季講演会は66()「洋風画から油絵へ ~西洋と東洋の彩色技法・材料の出会いと融合~」と題し、文化財保存修復スタジオ主宰・武田恵理氏を招いて開催された。

日本では油絵を文化財として見ることが少なく、南蛮の油絵の研究があまり行われてこなかった。そのため日本の油絵の研究はあまり進んでおらず、西洋と日本では技法史的にどのようにつながっているかの解明はなされていない。今回の講演では、これまで武田氏が行った調査や修復、研究をもとに西洋と東洋の彩色技法・材料の出会いと融合について検討が行われた。

油絵を考える上で重要になるのがその構造である。修復では図像の大きさではなく、絵の断面を層状に考えていく。油絵の構造は下層から「支持体」、「地塗り層」、「絵画層」、「ワニス層」と大別することができる。

最下層にある「支持体」には木や布、金属、紙などが使われており、材料は時代と共に変遷してきた。材料の変遷は道具の変遷であり、最古の支持体である木は表面を平らにする鉋などの道具の登場と共に出現する。現存する最古の例は2世紀エジプトの木製の棺であるが、1世紀の壁画に鉋を用いている壁画があることから支持体としての木の歴史は1世紀までさかのぼると考えられる。ヨーロッパでは13世紀から木が使用され始める。当初は支持体に用いる木は厚かったが、次第に乱伐によって木材が不足し15世紀頃には1㎝~5㎜まで薄くなる。そのため支持体の厚さが時代を見分ける一つの目安になることがある。また、木の種類によって大まかな産地が分かり、どこで描かれたか考える目安になる。木の次に登場する材料が金属である。金属は平面を作ることが難しく、初期は手打ちで伸ばし平面を作っていたが、圧延機の登場でローラーの間を通して平面を作れるようになった。加工する大きさに制限がありハガキ程度の大きさが標準であったが、航海では小さく丈夫であることから宣教師たちに携行されるようになった。その後、布が材料としてあらわれる。ヨーロッパでは亜麻布が使用され、日本では大麻布が使用された。電子顕微鏡で亜麻布と綿を見て比べてみると、亜麻には節があるのに対し綿はツルツルとしている。亜麻には節があるため絵具が絡み剥落しにくいのだろうと考えられる。しかし日本では亜麻が使われることは少なかった。当時の日本では手に入らなかったのではないかと考えられる。

「地塗り層」は絵の堅牢性を高める、美術的効果を向上させる、吸水性の調節、描き心地を向上させるといった効果があり、水に溶けるかどうかで水性地、半吸水性地、油性地に分けられる。

「絵画層」には下絵の木炭のデッサンなども含まれる。絵具は着色成分、固着剤、添加物を混ぜたもので、固着剤の性質で油絵、水彩、テンペラと分類する。

最表面層として日本画には無い「ワニス層」がある。「ワニス層」は塗膜による保護、光沢の調整、色調の調整という役割があり、乾性油と樹脂を混ぜた油ワニスと樹脂と溶剤を混ぜた樹脂ワニスに分けられる。この2種類の違いは修復に大きく影響するもので、油ワニスは絵具と同じく乾性油が主成分のため、絵具に影響を与えずに有機溶剤で除去することが難しいが、樹脂ワニスは黄変しやすい反面、有機溶剤で溶解させて除去することができる。現在は樹脂ワニスや合成樹脂ワニスが主流だが、初期洋風画時代の日本では油ワニスが使われており、その時代の樹脂ワニスの使用例は現在のところ確認されていない。日本では樹脂をお香の材料として使用していたため、高価で入手しにくい材料であったのではないかと考えられる。

日本における油を使った描画技術は海外より導入されており、飛鳥時代に漆芸技法の一つとして伝来した密陀絵、キリスト教の伝来と共に導入された初期洋風画、幕末にオランダ経由で入って来た幕末洋風画、明治維新前後に滞欧作家によってもたらされた明治維新前後の洋風画の4つに大別される。

密陀絵は飛鳥時代に中国から仏教とともに伝来した漆芸技法の一つである。本来漆は茶色や黒色といった暗い色をしているため発色が悪いが、油を混ぜることで発色がよくなり色が綺麗に見える。漆が硬化するためには油が乾燥しなければならないため、密陀僧(一酸化鉛)を入れることで油を乾燥しやすくしている。密陀絵の作例には法隆寺の玉虫厨子や正倉院の密陀彩絵箱などがある。

16世紀になるとイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが日本にキリスト教を伝える。その後来たヴァリニャーノがイエズス会のセミナリオを作り、日本人に哲学や物理学など西洋の様々な知識を教えている。その中で勉強に向かない者には絵画や銅版画の製作などを教えていたとされ、その指導にあたっていたのがジョバンニ・ニコラオというイタリア人であったと言われている。ニコラオは長崎県の八良尾で水彩画や油絵を教えており、セミナリオでの講義を通してイタリアルネッサンスの描画技法が日本にもたらされたのである。日本における洋風画のレベルは徐々に上がっていき、次第に日本人が描いたのか西洋人が描いたのか見分けのつかない絵や聖堂で飾られる絵もあったと記録されている。しかし、禁教令により多くの画家が海外へ移ることを余儀なくされ、日本に残った画家はキリスト教に関係のない絵を描くようになる。ニコラオもマカオへ移りその後の消息は不明となっている。この時期の絵を分析すると、油じみが時代を下るごとにだんだんと少なくなっており油が使用されなくなっていったことがわかる。こうして日本における初期洋風画は終焉を迎えるが、その一部がマカオのセントポール寺院の宝物庫に火災を免れて残っている。

1719世紀までの日本は鎖国体制下にあり、唯一出島だけが限られた国と交易をしていた。西洋からはオランダのみが交易を許されており、幕末西洋画はオランダからの情報・技術をもとに描かれていく。この時期に活躍した画家には司馬江漢や亜欧堂田善などがいる。この頃の洋風画は試行錯誤によるものが多く、顔料等も西洋のものと若干異なっているものもある。最近では日光東照宮陽明門に油絵蒔絵で絵が描かれていることが発見された。技法的には密陀絵に近いが、幕末洋風画に近似する部分が確認された。何層にもわたって描き直しがされていることがわかっており、今後の研究が注目される。

明治維新前後になるとヨーロッパ人が日本に来るようになり、西洋の技術を直に教わって描けるようになる。イタリア人画家フォンタネージに油絵を学んだ髙橋由一の「鮭」を拡大すると油絵に似た質感を確認することができる。髙橋の弟子である彭城貞徳の記録には「菜種油で絵具を作ったが乾かず、桐油を用いて成功」「赤レンガや川の青石を擂って色材にした」「亜麻仁油を煮て乾燥を早めた」とあり、「大変難儀した」と伝えている。この頃になると現代的な日本の油絵へと変わっていき、渡欧作家が増え画家の関心は技術・材料から表現へと転換していった。

こうして日本に伝わった洋風画であるが、固着剤に注目すべき点がある。武田氏が復元を行った初期洋風画の代表例である「マリア十五玄義図」(原田家本)は、黄色に艶をだして金色を表現している部分や目に艶がある部分があることから調査当初は油を用い使い分けをしていると考えられた。同時代に行われた南蛮画の調査では、科学分析でその部分に膠と油が用いられていることが報告された。しかし復元に際し膠と油を混ぜたが分離して全く混ざらず、テンペラのように卵を仲立ちにすると成功した。膠と卵は同じたんぱく質であるため調査結果を踏まえた報告では膠とされていたが、膠と油では再現できなかったのでおそらく卵などの界面活性剤が用いられていたと考えられる。ルネサンスの1516世紀には部分的に艶をつけるなど卵黄テンペラから油性テンペラへの転換期が来ており、この時代にニコラオが来日していることからこの転換期の技法が伝わっていた可能性は高いだろう。

固着剤は顔料にも影響を与えており、白色の顔料には鉛白が使われている。鉛白は毒性があるため現在では使いにくく、初期洋風画時代に日本では牡蠣殻を原料とした胡粉が主流であった。しかし、「マリア十五玄義図」でもほかの初期洋風画でも鉛白が使用されている。カルシウム系の顔料は油と混ぜると灰色になることから油絵には適しておらず鉛白が使われていると考えられる。固着剤に関する記録では司馬江漢や亜欧堂田善などが一般的な固着剤には使わない材料を用いての作り方を残しており、当時の人々の創意工夫がうかがい知れる。

講演終了後には質疑応答が行われ、活発な意見が交わされた。

 

 

報告 3年 伊禮 拓郎

2 年 宮田大生