平成21年度春季講演会
石見銀山 世界遺産への道のり



  平成 21 年度春季講演会は、去る 6 月 6 日土曜日「石見銀山 世界遺産への道のり」と題して、島根県大田市教育委員会教育部長(前・島根県大田市石見銀山課長)の大國晴雄先生をお招きして、ご講演頂きました。




ユネスコでは、他国の異なる文化を理解することが平和に繋がるという考えを基に、世界遺産の国際会議で 21 カ国の委員国の合意によって、世界遺産の登録が決定されます。先生は、世界遺産の登録の条件とは、「顕著で普遍的な価値」を証明することだと指摘しました。
 石見銀山は鉱山遺跡としてはアジアで始めての世界遺産です。
 考古学的に銀の生産の全プロセスが明らかなことも登録要件の一つといえます。また、港から必要な物資を得て、山から銀を掘り街道を通って運び出し、船で海を渡り朝鮮や博多と交易する、といった銀の生産から流通の前半までの遺跡が揃っていました。
 鉱山といえば暗く辛い労働の場という印象が強いですが、最盛期には簪を挿したり、煙草を嗜んだりと豊かな生活を送っていたそうです。町並みは伝統的建造物群として保存されています。
 石見銀山では銀精錬に灰吹法が利用されていました。銀の鉱石に鉛を加えることで融点を下げ、余分なものを灰の中に溶かし込ませ銀だけを得る、という朝鮮から石見に輸入された技法です。この技術は、その後生野、佐渡と広まり、貨幣をつくり、戦国の世を動かして行きました。 16 世紀、銀の価値は金の約7分の 1 でしたが、産出量は 30 倍もあったそうです。当時の石見銀山は国内外に強い影響を与えていたとのお話でした。

 大森町では 50 年以上も前から石見銀山の保護について取り組んでいます。 1957 年、全ての町民の方が加入する形で大森町文化財保存会が発足。小学校には文化財愛護少年団が設置され、 1969 年に国指定される以前から、文化財としてずっと大切にされてきました。指定後は国内法による保護を受けることになり、研究調査、修繕保存などよりいっそう保護に力をいれています。現在では月に 1 度のワークショップ、役所の職員の方の勤務時間外の運動、日々の話し合いなど、地元の人と行政が互いに協力しあっています。
 世界遺産の登録認定の際は、簡潔な文章でどのように石見銀山を表現するか、理解してもらうかに苦労されたそうです。
 登録後、環境は観光客の増加に伴い変化せざるを得ませんが、大々的な急速開発ではなく現状に適した遺産の保護を優先にした整備を行っています。コウモリの生態や湿度などの坑道の変化を防ぐため、週に 3 日、 1 日 10 名しか参加できない限定ツアーもあるとのことです。警備会社のガードマンではなく、地元の人々がお助け隊として解説や道案内などに対応しています。


  住居と工房が共存在ており、なおかつ自然に多大な影響をあたえることなく人々は鉱山と共に生きてきました。今も研究調査が進められており、その営みは続いています。石見銀山遺跡とその文化的景観は、一見地味にも見えますが、銀採掘のために開けられた坑道の穴は人間 1 人が通れるぎりぎりの大きさで掘られ、緑あふれる山を削ることなく採掘していました。また、町の中には水田や畑がなく鉱山があるからこそ人々がここに住んでいたと言える所に石見銀山遺跡の奥深さがあります。先生は石見銀山遺跡の世界遺産のテーマは「環境と共生すること」にあるとご説明されました。